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タイトル_由緒.png
射手引神社の現在に至るまでの歴史や経緯などを記載しております。
歴史に触れてみると面白い発見がありますよ。

社 伝

古処の山麓や当地に住む羽白熊鷲なるもの良民を苛む
神功皇后これを討伐するおり難渋され給いて
貴船宮の杜にて休らいて 神々の御加護を祈り給う
雲々の間より光と共に手力雄命
天の射手を率い御加勢給い征伐叶う
神功皇后 貴船の神々と共に手力雄命を併せ
射手引大明神と称して祀り給う
後に里人 香椎宮(福岡市東区)より御祭神を戴き
尾浦の地に祀り奉る
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御祭神

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旧香椎宮
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
仲筒男神(なかつつのおのかみ)
旧貴船宮
罔象女神(みづはのめのかみ)
高靇神(たかおかみのかみ)
手力男神(たぢからおのかみ)
里の人々からの信仰厚く、更に藩主による信仰もまた格別でありました。 天正年間までは、領主秋月大蔵太夫種実が当神社の背後にある城山に居城し、本社の尊崇極めて厚く社領十町を寄進し社殿を造営したと伝えられます。また黒田長政が筑前に就いてからは累代藩主の崇敬厚く、寛政年間以来黒田大守の御祈念所となりました。
ここに祈願寄進の一部を記せば、

  黒 田 宜 政  享保三年三月吉日正殿一宇再建
    従四位下肥前守少将源朝臣   黒 田 宜 政
  黒 田 治 之  安永十年九月朔日 宝殿再建
 藩庁より宮掃除人夫三人を附して神域の清掃に力む。
 覚書により掃除仕方一日に二人宛、内一人は昼夜詰切り一人は朝五つ時より八つ時までとあり。
  真   妙   院 (当国主備前守斎清母堂)文政七歳五月神殿拝殿御造営の為め金子弐拾五両寄進依之奉改造。
  黒 田 斎 清  文政八年乙酉四月十九日
    筑前鎮護湯立大神楽一座、大檀那筑前の国主黒田備前守斎清公為悪疫退散御願成就。
    天保四年神幸装用具として長柄御槍二本弓二張寄進及び神殿再建。

弘化二年両神宮を山田触惣社に定められる。
明治六年十一月三日に村社に列せられ、昭和四年一月十日に郷社に列せられる。
現在、参道階段を上りきった所に建つ鳥居は、久恒貞雄氏(明治三十年筑豊で炭鉱業を志し、石炭販売業を行う。昭和三年衆議院議員となる。)により昭和三年に奉納されましたが、扁額の文字は黒田長成氏(筑前福岡藩最後の藩主・黒田長知の長男)によるものです。
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